熊野古道への旅 2日目 ③大斎原と補陀洛山
これから山を下って大斎原へ向かう。水害で流される前の旧本宮社殿の絵図。川の中流地域が広くなっているため、明治22年の大雨で押し寄せた水が、下に流れ切らずに水が溜まって流された。
最初からかなり急な階段が続く。
皆ピッチが速い…ずんずん進むけど、横道もみたいじゃない(笑)
来た方を見て、改めてスゴイ階段だったと思う(笑)
そして順番からいうと逆になるかもしれないが、本宮への入り口の鳥居に出る
不良の太ったオバサン?
ここから大斎原へ向かうが、途中は町中を通る。
神が舞い降りたという大斎原、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲に熊野本宮大社があった。当時は約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、があったという。江戸時代迄は中洲への橋はなく、参拝に訪れた人々は音無川の冷たい水で最後の水垢離を行って身を清めるため、着物の裾を濡らしてから歩いて渡るしきたりだったそうだ。
明治22年、1889年の8月の大水害が本宮大社の社殿を呑みこみ、流出を免れた4社を現在の熊野本宮大社がある場所に遷座した。かつて本宮のあった場所大斎原には、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられている。
町を突っ切って曲がると…高い堤防迄は刈り取られた田んぼ。その向こうに大鳥居が…
大きい! 歩いてもなかなか近づかない(笑)
そして歩くと鳥居がどんどん大きくなる
あ、八咫烏だつたのか…間近に来るとその大きさに改めて驚く。
逆光だったので、越えるとこんな風な色目
この大木達も、水害のあったころから150年近く経って、また大きくなったものだろうか…とてつもない歴史の重さを感じる。
直ぐ横がもう川だから、ひとたび水害が起きると何もかも持って行かれるのだ…自然は怖いこともある
説明版を見ながらレクチャーを受ける
今は水は殆どないけれど、確かに川に囲まれている大きな砂洲になっている
ここから、今日の最後の観光地の補陀洛山寺へ向かう
◎補陀洛山寺
補陀洛とは『華厳経』でインドの南端に位置するとされる場所。仁徳天皇の頃、インドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開かれたと伝えられている。平安時代から江戸時代にかけて、小さな船に30日分の脂と食糧をたずさえ、南海の彼方にあると信じられていた観音浄土を目指す「補陀洛渡海」の出発点の寺。外から釘を打ちつけてほぼ彼岸を目指す死の旅であったらしい。ご本尊の千手観音は苦悩する人々を救うと言われている
◎渡海船
船上に造られた屋形には扉が無く、屋形に人が入るった後出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固定されたという。屋形の四方に4つの鳥居が建っており「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門といわれる。実際に、幾つもの書物に船出した記録が残されているというが、即身仏の海版のような感じでその覚悟が想像される。
いつも住職がいるわけではないそうで、今回はツアーの為に解説しに来てくれた。
国宝の千手観音以外はカメラOKですから、写真を沢山撮ってくださいと言って貰えて、心置きなく沢山撮った(笑)
古くからの時代を感じる像が沢山あった
浜の宮王子ともいわれ、ここが中辺路・大辺路・伊勢路の分岐点になっているそうだ。
これは一種の曼荼羅図で、寺から海に船を出すところが描かれているそうだ。金をふんだんに使い、たたえられているのが分る
見ることはできたが写真はNGだった千手観音像は木造の立像で、何だか有難い雰囲気がしっかり伝わって来た。皆、順番に像の前で手を合わせていいということで、目の前でじっくりみることができた。これはネットでみつけた千手観音の写真。実際はもっと明るい感じがした。
静かな中に歴史の重さが伝わる場所だった
鳥居を覆う位に、とてつもなく大きい楠…800年もの間立っているのかと思うと不思議な気がした
午後も色々見どころ満載だった。
後は一路、今夜のホテルのある紀伊半島の最南端の串本へ向かう。続く